浄書の歴史

楽譜浄書の歴史は、印刷法の発展と切っても切れない関係にあります。

「浄書する=原稿を出版譜の形に整える」ということは、

出版時に用いられる印刷法に合わせて「版下を作る」ということだからです。

 

15世紀以降のヨーロッパでは、実にさまざまな印刷法が発明され、

必要とされる浄書の技術も、それに合わせて変化していきました。

 

ここでは、楽譜印刷の歴史を網羅的に解説したサイト、

Music Printing Historyの概要を、許可を得てご紹介します

(画像もすべて当該サイトから許可を得てお借りしたものです)

 

本家サイトには、ここでご紹介する以外にもたくさんの情報、資料が掲載されています。

ぜひこちらもご覧ください。→Music Printing Historyホームページ

 

また、楽譜出版の歴史を知ることのできる文献も本ページ最後にご紹介しました。


写本の時代(15世紀半ばまで)

識字が教会の聖職者を中心としたごく一部のみのものであった時代、楽譜もまた一部の特権階級のものでした。そのため、華麗な挿絵や文様を施した手書きの「装飾写本」が多数作られました。


木版印刷の時代(15世紀後半頃まで)

木版に反転した楽譜を描き、それを彫刻刀で彫って浮き上がらせ、版下とします。浮き出た部分にインクをつけ、紙や上質な羊皮紙(ベラム)に転写する印刷方式です。


活版印刷の時代(15世紀後半〜)

あらかじめ用意された音符やアルファベット、五線等の金属活字を組み合わせて固定し、版下を制作します。版下を作るまでの工程は非常に大変で高くつきましたが、それまでより印刷スピードが格段に上がったため、楽譜の販売が可能となり、多くの人々が楽譜を手にすることができるようになりました。


エングレービング(銅版印刷)の時代(15世紀末〜)

銅版に反転した楽譜を彫りつけ、版下を制作します。版にインクをなじませ表面を拭うと、彫りつけた凹部にインクが残ります。残ったインクを紙に写し取ることで印刷する方式です。活版印刷と比べ、原稿細部の再現性に優れていたため、活版に代わる手法として定着しました(訳注1)。時代が下るにつれ、別の方式にとって代わられたエングレービングですが、ヘンレ社等、いくつかの出版社ではごく最近までこの手法を採用(訳注2)していました。

訳注1     活版と同様、版下が丈夫で大量印刷に向いていたことも手伝い、

エングレービングの出現によって楽譜出版の市場は大きく広がりました。「楽譜浄書」という言葉が、たとえば英語ではmusic engraving、ドイツ語ではnotenstich(noten=楽譜、stich=刺す<英語のengravingとほぼ同義>)という単語として定着したことにも、エングレービングが楽譜印刷普及の大きな転換点であったことが表れています。

訳注2     エングレービングは、細かな彫刻ができることのみならず、凹部に仕込む

インクの量によって印刷紙面上でも繊細で立体的な表現をすることが可能なため、今でも紙幣、王室・皇室等の公式文書の印刷に使用されるほどの格調高さを備えた印刷法です。このような特徴を愛するいくつかの楽譜出版社では、長きにわたってエングレービングによる楽譜印刷が行われました。


リトグラフ(石版印刷)〜フォトリソグラフィの時代(18世紀末〜)

石灰石に油性インクで原稿を書き、その上から酸性の水溶液を塗ります。酸(と石灰石との化学反応)によって楽譜を石版上に焼き付けた後、アラビアガムなどの水溶性の薬剤を塗って非描画部を保護します。この状態の石版を水にひたすと、描画部のみにインクがつく状態となり、印刷することができます。

 

写真技術が出現すると、重く扱いにくい石灰石ではなく、金属やプラスチックコーティング素材を用いた薄い版下が作れるようになり、より便利になりました(フォトリソグラフィ)。あらゆるタイプの原稿から版下を作成することができるため、現代の楽譜印刷においても主要な一翼を担っています。

 

なお、文字主体の出版物では、凸版印刷(多くは活版)が長らく印刷法の主体であったため、聖歌集など、文字情報の多いものでは、フォトリソグラフィによって楽譜部分の「活字」を作成することもよく行われました。


さまざまな浄書ツール


五線を描くためのカラス口

音部記号等がセットになったハンコ

スラー等を描くための曲線定規


フォトリソグラフィが始まると、紙での原稿制作が可能となり、ステンシル、ハンコ、転写シート、楽譜用タイプライター、ペン(手書き)、コンピュータ(楽譜作成ソフト)など、さまざまな浄書ツールが開発されました(訳注)


訳注       日本では、フォトリソグラフィの発明後に楽譜印刷・浄書が普及したこともあり、ペンと

ハンコを用いた手書き浄書が定着しました。

五線のレイアウトを決めたら、「カラス口」という5本のペン先をもったペンで五線を引いていきます。その後、音部記号や符頭など決まった形式のものはハンコで、符尾やスラー、クレッシェンドなど、時と場合によって長さや形の変わるものは手書きで(適宜定規などの補助具を使いながら)楽譜を仕上げていきます。

現在は、世界的な趨勢にならい、楽譜作成ソフトを用いたコンピュータ浄書が主流となってきていますが、手書き浄書による楽譜もまだまだたくさん再版・販売され続けており、身近に目にすることができます。コンピュータ浄書が一般的になったのはほんのここ10〜20年ほどのこと。それ以前の国内初版の楽譜を見かけたら、ぜひじっくり眺めてみてください。とても手書きとは思えない職人技を目の当たりにすることができます。



楽譜出版の歴史〜関連文献

  • 大崎滋生 著「音楽選書(67) 楽譜の文化史」音楽之友社

楽譜出版の歴史を俯瞰した貴重な解説書。どのような時代背景から楽譜出版というものが成立していったのかを概説しています。著名な楽譜出版社についてのエピソードも知ることができて楽しい1冊です。

  • 水谷彰良 著「消えたオペラ譜 - 楽譜出版にみるオペラ400年史」

オペラにかかわる出版史を綴った本ですが、出版社と作曲家の力関係など、楽譜出版全体の趨勢についても想像力をかき立てられる1冊です。


楽譜出版の歴史〜関連サイト

現在では少なくなったエングレービング(金属プレートへの版刻)の実際を、動画で紹介しています。2つ目の動画には日本語版のナレーションがついており、わかりやすいです。1つ目の動画のナレーションはドイツ語・英語のみですが、2つ目の動画よりも詳しく版刻作業の様子を見ることができます。各工程が字幕で出るので、ドイツ語・英語ができなくても比較的見やすい動画となっています。できあがった金属の版下の美しさには、ため息が出ます!