指示記号に込められた感情

浄書を学び始めて気づいたことのひとつが、「スタッカートやスラーなどの指示記号の形状・付けられ方は、思っている以上に、その曲を演奏するときの意識の持ち方や身体の動きとシンクロしている」ことでした。

 

浄書では、スタッカートの大きさひとつにも神経を使います(出版社によって、曲集によって、記号の仕様が違うことはしばしばです)。スラーも、弧の描き方がフレーズ感と一致するよう、高さ、丸みを注意深く設定します。音のニュアンスを適切に表すよう心を配っているのです。

 

一方、同じ曲の中で、たとえばテヌートを記号で表す箇所があったり、文字で表す箇所があったりする場合。「整える」という観点からだけ言えば、どちらかに統一したほうが見やすいです。しかし、テヌートを記号で表した場合と、文字で書いた場合とでは、微妙にニュアンスが変わってくることがあります(実際に、作曲家がそうした微妙な差をつけるために、わざと表記を変えていることも多いのです)。こうした不統一は、敢えて残します。視覚的な印象を大事にします。

 

今でこそ、作曲家も楽譜作成ソフト等で作曲する時代となりましたが、五線譜に手書きをしていた時代は、きっと、作曲家は、その音を出す、演奏するような気持ちで記号を紙に書きつけていたと思います(仕事柄、手稿を目にする機会も多いですが、浄書譜よりもずっと赤裸々に、音の姿が書き留められていると感じます)。そうした生きた音楽を殺さないように形を整えたものが、出版譜であり、現代記譜法として生き残ってきた記譜のルールであり、浄書のルールなのです。

 

自分が演奏者として楽譜を読むときの意識に立ち戻ると、しばしば、「スタッカートが書いてある」→「スタッカートは短く切るという意味」→「この音は短く切ろう」と、辞書的な意味に引っ張られて音を想像してしまいがちです。

 

でも、自分が作曲家であったとして、この音にスタッカートを付けるとき、どんな風にこの「点」を描くだろうか?スラーを、どんな形で付けるだろうか?そんなことを想像してみることで見えてくる音の姿もあると思います。手紙の筆跡から差出人の人柄や気持ちを想像してみるように、楽譜の形そのものから曲のあれこれに想像を飛ばしてみるのもまた面白い試みではないでしょうか。