ベリャーエフ社の楽譜〜今に残る創業者の熱意

版下の変遷から


楽譜は、長生きです。

ある版が出版されると、その版下は、他の出版物では考えられないほど、長きにわたって使用されます。

 

日本でも、50年、60年前の版下が用いられた楽譜は普通に楽器店で目にすることができますし、ヨーロッパのものとなれば、100年以上前に作られた版下を用いた楽譜も珍しくありません。

 

ただし、時代が下るにつれ、時代の文脈に合わせて微妙な変化が加わることもあります。特に、合併等により、元の出版社が現存していない場合(版下のみ合併先の出版社に移管されたり、出版名義のみ残り、会社としては別経営になるなど)。

 

上の写真は、どちらも、ベリャーエフ社によるスクリャービン「ソナタ第2番 嬰ト短調 Op.19」(1898)です。

左は1898年の初版楽譜。右は2010年に再版されたものです。

 

2つの写真とも楽譜部分はまったく同じで、初版原版をそのまま用いていますが、タイトル部分や、著作権・楽器名を表示するか否か、といったところが変更されています。

 

たとえば、初版のタイトルはフランス語表記ですが、再版はドイツ語表記。

ベリャーエフ社はドイツ・ライプツィヒで創業したロシア系の出版社ですが、この曲の作曲当時は、ベリャーエフ社から出る楽譜の多くがフランス語表記を採用していました(当時の楽壇の状況を反映しているのでしょうか)。

スクリャービン自身もフランス語表記を好んだという話がありますし、そのあたりからフランス語表記が採用されたのでしょう。

 

一方、2010年のものはタイトル部分がドイツ語表記に直されています。

一時ロシアに移転したものの、ドイツで営業し続けてきたこと、2006年以降、ドイツ・ショット社との協働関係により楽譜を出版していることなどが関係していると思われます。フォントも、デジタル印刷ならではの揺らぎのない輪郭で、楽譜内の発想標語などと比べると違いが際立ちます。隙のない美しさではありますが、楽譜そのものとの一体感、初版当時の雰囲気を伝えるものとしては、やはり真正初版の楽譜に軍配を上げたい気もしたり。

 

というのも、創業当時のベリャーエフ社の持っていた高い印刷技術は、特筆に値するものだったからです。石版印刷、特に多色刷りの卓越した技術において、当代右に並ぶものはないと言われていたほどでした。

 

右の画像は、グラズノフの交響曲第6番ハ短調 作品58の表紙ですが、印刷の鮮明さ、カラーの発色の美しさを見ると、ベリャーエフ社の技術の素晴らしさがよくわかります。

 

その技術の高さは、もちろん楽譜自体にも発揮されていました。先ほどの画像を少し拡大し、五線を括る中括弧(ブレース)の中程、ちょうどト音記号の尻尾あたりに注目してみましょう。 

 


左が1898年初版、右が2010年再版のものです。1898年版は輪郭がはっきり、すっきりとしていますが、2010年のものは、中括弧(ブレース)から五線に向かって、2本、線が生えています。印刷不良の一種で、ヒゲと言います。

 

また、五線の太さやト音記号などを見ても、2010年の方が少し輪郭が太ってしまっています。

 

現代のベリャーエフ社の印刷が…というよりは、版下の磨耗や劣化等により、2010年版以上のクオリティで印刷することがもはや不可能になっている可能性も高いのでは、と思いますが、いずれにしても、1898年当時の印刷が非常に鮮明で美しかったことは間違いありません。

 

 

 

このベリャーエフ・クオリティを担っていたのが、浄書家・印刷技術者のCarl Gottlieb Röderです。Röderは、楽譜における石版印刷技術を実用化したことでも有名な人物です。当時は、Simrock、Schlesingerなど、19世紀の超メジャー出版社をはじめ、多くの出版社と契約していた売れっ子でした。

 

ロシア人であり、祖国の芸術振興にこだわったベリャーエフが、わざわざ国外のドイツで楽譜出版社を創設し、売れっ子Röderに浄書・印刷を委託していたということ。当時のヨーロッパで話題を呼ぶほどの美しい装丁を施していたこと。その事実は、ベリャーエフが、いかにロシアの芸術家たちの作品を愛していたか、それらを世界に伝えたいとどれほど強く願っていたかを物語っているように思います。

 

その熱意の結晶は、今やコレクターにとって垂涎の的となっています。カラフルで美しい表紙が主にコレクターの心を掴んでいるようですが、中身もまた、今では手に入れることのできない美しさなのです。

 

いつか、一度でいいから、実物を見てみたいものです。

 


補遺:独特の浄書ルール

ベリャーエフ社の楽譜には、現代の一般的な浄書にはない、独特の浄書ルールがあります。

どこだか分かりますか?

 


上記2つの画像、前後が同じ音なのにもかかわらず、符尾の長さが異なっています。現在の一般的な浄書ルールでは、このような処理はしません。32分音符以上は例外ですが、2分音符〜16分音符までは、符尾の長さは3間半、1オクターブ分とするのが普通です。今の浄書ルールに従うならば、左の画像では右側の4分音符に、右の画像では右側の8分音符に、符尾の長さが統一されなくてはなりません。

 

しかし、ベリャーエフ社の楽譜では符尾の処理はそのようには行いません。基本的に、音価の短い音符の符尾が少し長めになります(パッと見たときの窮屈さを軽減するためか、理由ははっきりとわかりません)。

 

このような独特の浄書ルールのルーツは、実は、ブライトコプフ社(現存する、世界で最も古い楽譜出版社です)にあります。ベリャーエフ社の浄書・印刷を担当したRöderが、ブライトコプフ社で研鑽を積み、独立した浄書家・印刷技術者であったからです。両社の楽譜を見比べてみると、その親近性、受け継がれる職人魂を感じることができます。

 

ところで、もうひとつ独特な浄書ルールということでいうと、ベリャーエフ社の楽譜では、発送記号やクレッシェンド記号、指番号等のアイテムが重なっている例がよくみられます。現在の浄書ルールでは、アイテムどうしの重なりは基本的にご法度なので、ある一定の基準に従って各要素をずらし、重なりを回避するのが普通です。ベリャーエフ社では、重なりを回避することよりも、各要素の表示位置にこだわったということかもしれません(重なること自体は、判別ができればOKという考え方だったのでしょうか)。

 

現在でも、出版社ごとに細かな浄書のルールは異なることがあり、その理由を聞いて「ほぉ〜!」と唸ったりすることがあります。Röderをはじめとする昔の浄書家たちにも、タイムマシンに乗って、インタビューに行けたら素敵なのですが。