「見やすい」を超えて

昨今は、コンピュータソフトで入力された楽譜がネット上で気軽に販売できるようになってきました。

いわゆる浄書が施されていない楽譜も多く目にします

(もちろん、ネット上で売られている楽譜の中にも、良い浄書がされたものはたくさんあります、念のため)

 

音符の間隔と音価の関係がおかしいなど、そもそも楽譜通りに演奏するのが困難な楽譜は論外ですが、

多くの場合は、作編曲された方が、ご自身なりに、読みやすい楽譜をと工夫された跡が伺えます。

 

にも関わらず、こうした楽譜では、発想記号やアーティキュレーション記号など、

表現の要となる指示の配置に無頓着なケースが意外に多いのです。

 

本来、発想記号やアーティキュレーション記号は、決して音符の付属物ではなく、

音符とともに音楽の方向性を指し示す大事な要素です

(もちろん、その用語や記号としての曖昧さについては、あまた指摘されてきたところではありますが)

 

その配置ルールも、曲を立体的に、整理して捉えられるように洗練されてきました。

浄書のルールは、単に音符を見やすくするだけのものに留まらず、曲の姿を演奏者の頭の中に

鮮やかに立ち上げるための補助線や土台のようなものなのです。

 

こうしたルールがあまり周知されていないことは、とてももったいないことだと感じます。

 

楽譜を単なる音取りの道具としないためにも、浄書ルールの底に横たわる哲学のようなものについて

いつか発信できるよう、自分自身の理解を深めていきたいと強く思う今日この頃です。